昭和50年07月17日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげは、つきものではないぞ。」
色々に頂ける御教えだと思うですね。お供物とおかげは付物ではない、これはおかげの自覚と言うかね、おかげの自覚を促されたものと思う、信心のない間、広大なおかげを頂き、いわゆる広大無辺のおかげの中にあっても、それをおかげをおかげと知らない、分からない。それこそこうやって日々、お生かしのおかげを頂いておると言う事は、当然当り前のことの様に思っておったけれども、段々信心が分かって来れば来る程、日々がそういう天地の親神様の御恩恵の中にあっておると言う事が段々分かって来る。
そこで有難いと言う心も起って来る。その有難いと思う心の高とでも申しましょうか。私は、これ程有難いと思うておりますと言う、言うならば高の様なものです。言うなら高と言うのは、いわば計りです。自分はこれ程有難いと思うておりますと。お道の信心は、お日初穂と言う事を申します。毎日お初穂のお供えをする。だからお参りが出来なくても、ちゃんと家で、お礼のお初穂を包ませて頂いて、毎日お礼のお初穂をする。
お日初穂と言います。そして何日貯まると言うがね、何日目か参った時に、それを一緒にお供えをする。それで何月何日と、例えば伊万里の方達の場合、皆んなそうです。伊万里支部の竹内先生が、それを全部纏めてお日初穂をお供えなさいます。これは大変そのお日初穂の内容という事が分かれば分かる程、有難い事だと思うんです。今日もおかげを頂いておりますと言う、お礼の印なんですから。又お供えには色々の場合もあります。先日からお参りをして来た、初めて参って来た方があります。
お供え物を持って見えて、お初穂をお供えしておられる。此処でこう言う事を言われる。先生これは名刺代りでございますと。確かに名刺代りです。そんな場合もあります。初めて参って来た人、いわゆる名刺代りなんです。かと言うと又お願いをしておって、昨日も、ここ一週間あまり毎日参って見えます。もう長い間お稲荷様のご信心を夫婦でしておられた。持病の様な病気のために。所がお導きを頂いて、自分がお参りして来る様にならせて頂いて、この人は不眠症の方である。
晩眠られないと言う。それでお参りをしてきてお願いをしたら、その晩から眠られる様になった。忙しかけんち言うて御無礼しとったら、また今度はその日眠られなかった。そういう事が何回か続いた。そしてお参りをすればおかげを頂き、お参りをしなかったら、又眠られんと言うので、今毎日日参りしておる。そげん効きなさる神様なら、俺がこつもお願いしてくれと言うて、ご主人が頭の病気です。
もう長年の頭の病気らしいです。それからそのお願いをなさいましたら、段々おかげを頂いて、もう本当にすっきりおかげを頂いた。それでお礼にお酒ば一升お供えしてくれち言う訳なんです。そりゃ安いもんですよね、長年の頭のそんな病気が、一週間ばっかりお参りさせて頂いてからまぁ安いもんとか、高いもんとか言う事じゃないけれども、これはそうしなければおられないお供え。おかげを受けて御神酒の一升もお供えせねば居られないと言うのである。
だからおかげとお供え物はつきものではない事が分かりますね。どうぞ頭の悪いけんお願いしますと言うて、お酒一升持って来た訳じゃない。只奥さんが毎日参って来るから、お前が、そげん利きなさる神様なら、俺がこつも一ちょお願いしてくれである。別にお初穂ことづけた事ではないけれども、おかげを頂いた。だからお供え物とおかげは付きものではない。お供えはどこまでもそういう様に。
本当に特別のおかげを頂いたら、お礼の一つもさせて貰わにゃおられんと言うのが、お初穂であったりお供えであったり。又は初めてお参りをして来る時の、名刺代りである。私はお供えの事に就いて、もう昔頂いた事ですけれども、お賽銭と言うのはこれは天地に対する還元だと頂きますね。だからお寺さんに参たって、お宮さんに参ったっちゃ矢張りお賽銭。これは天満宮さんに参ったから、天満宮さんにお供えしよるとじゃない、それはどこまでも、天地に対する感謝の意を表すという事である。
だからお賽銭なせにゃいかんです必ず。是はもう素晴らしい天地の還元です。もうお初穂しよるけん、お賽銭はよかろうと言う事じゃでけんです。チャランチャランと言わするところがよかとこです。そげん誰か言うたげなら、縄つけちゃるげなもん、昔は穴がほげとった。それに綱付けてチャランチャラン又引き上げちから、笑い話の様ですけれども、これはどこの神社仏閣に行っても、絶対お賽銭だけは致します。
三人参れば十円玉なら三枚、これはもう本当に些細な事の様ですけれども、天地へ対するものなのです。金光様じゃない。それから皆さんがこうやってお初穂をなさる。毎日参る方はお日初穂をなさる。それはね金光大神への手土産代りと頂いたです。お供えの内容と言うものは、そういう金光大神に、日夜おご苦労おかけしておるから、言うならばお参りして来るたんびに、何かちょっと手土産代わりにする。それをもう少し言うと、親先生への手土産代りと言うことにもなりましょう。
だからそれにはいつも、そういう思いが込められなければいけません。甘木の平田さんが言うておられます事はお豆腐一丁、いわゆる戦時中ですから買うとがない。だから家で作る。お豆腐一丁作っても、とにかく早う親先生に持って行け。天ぷら一つ揚げたっちゃ、ちょいと早う親先生に熱い内に持って行け。行くからではないそれは、親先生に対する所の真心の、これはお供えです。その親先生が金光大神に通じてござるなら、金光大神のお供えと言うことにもなるわけです。
せにゃならんじゃない、そうさせて貰わなければおられないものが尊いのです。昨日遅うから、本郷の安武先生が参って見えた。三番目てしょうかね、鹿児島の大口と言う町に布教します。今日が甘木の夏の御大祭ですから、十日の日に来なさった。そして必ずこちらえ来たら、まぁ色々非難もあるらしいですけれども、矢張り求めて求めて止まないものがある。夕べもやんがて二時近くじゃなかったでしょうか。
私の休んどる部屋にやって来て、それでまぁ熱心におかげの泉を、繰り返し読ませて頂いておかげを受けた事、又は分からない所、又は御神夢を頂いた事等、先代の安武先生の事、現代の親先生の事、まぁ色々に、所が本当に自分の思う様に、信者が助からないと言う事に歯がゆい。けど私は申しました。信者は助けるとか、助からんと言う様な事なんかに、けれどもあなた、まぁだあぁた達の若さで、家内も持たずに一人で、見も知らない所に布教に出て、どうでしょうか二年ぐらいなるでしょうか。
それでいて今月々九万円お初穂がある。月々に段々それから上昇して行きよる。それにお供え物もあるから、一人暮らしには事欠かない。御本部参拝にも事欠かない。親教会への御初穂も事欠かない。又その親である甘木の親教会へのお供えも事欠かない。だからそれで良いじゃないか。だからお供えが出来ると言う事、そのお供えが出来る事のために、日々修行しておる様なもの。
そして成程神様は、自分くらいな若い何にも分らん教師に対して、こういうおかげを下さると言う事だけを、日々神様の働きを身近に感じて行きればそれで良い。助けて下さるのは神様だから、神様が愈々助けて下さる事の段になつて来りゃ、信者も増えるだろうし、助かりもはっきりしてくるだろう。今は問題はあなた自身が、有難い勿体無いが分らなきゃならん時であり、あなた自身が、助からなければならない時だからねと言うて、まあ話した事でした。
お供え物のために、一生懸命に修行しよると言うても過言でないわけです。同時に私は、お供え物と言うと、もうそれはあなたの命だから。お米のお供えをするにしても、反物のお供えするに致しましても、お金のお供えをさして頂くにしても、それは私共の人間になくてはならないもの。言うならばそれがなからなければ生きられないもの。そうでしょう。着物が無からねば生きられない。
食べ物がなからねば生きられない。お金がなからねば生きられない。そういう大変な命と密接な物を、お供えすると言うのですから、それは私の命をお供えしとると同じ事でしょうが。だからそういう頂き方をもって、お供えができると、是はお供え物とつきものではないと仰せらるるけれども、命をお供えすると言うのですから、これは真真心です。私は、折角皆さんがお供えなさるなら、今日いろいろ申しました、そういう内容がね。だからあそこに書いてある。
昔樺目時代には、お賽銭箱の所に紙が貼ってあった。謹みを添えなければいけない。只立ちながらポーンと賽銭箱の中に放り込む様な事じゃでけん。押し頂いてせめてお賽銭函の前に座って、お供えする位な気持ちがなからなければ勿体ない。お初穂でも包ませて頂く時に、心の中に不浄が掛ったり、お粗末御無礼があったりする所をお詫びする。いわゆる、お詫びと謹みがいると書いてあった。
それにほんなこうやつてもう、押し揉んだごたるとば、そのままこうやって入れちゃる人がある。例えば千円なら千円のお金でも、値打ちには変わりはないでしょう。いやしくもお供えですから。神様にそういうお詫びと同時に、謹みを添えてお供えしなければいけない。毎日の事になると、それがもう入場料のごとなって、当り前のごたる感じでね、お供えする様になっちゃ、折角のお供えが生きて来ない。
お供え物とおかげは、つきものではないと言う事は確かに分かった。けれども又その後に申しました、お供え物とおかげが、密接な関係があると言う事はその内容である。思いである。わが命をお供えさして頂いておるんだと言う様な、真心がこもった時に、神様がその真を真と受けて下さらない筈がない、そこに言うならばその真に対するおかげが伴うて来る。要は私はこの御教えは、結局信心を分からして頂く、言うならばおかげの自覚に立たせると言う事だと思います。
おかげの自覚が深くなれば深くなる程、それこそわが命でも奉らなければ居られない事になつて来る。教祖様の御時代に或る信者が、お参りをして来た。教祖様のお弟子の中に、金光大神と言う、御神格を受けられた先生が、お二人でおられた。片岡次郎四郎と言う先生、斎藤又三郎と言う先生、この方達は、金光大神の神格を受けられた。幸先の金光様と言う風に申し上げた。
斎藤又三郎先生の所辺りでは、大変な御比礼が輝いた。それこそ大谷を通り抜けて、そこを教祖様の所には参らずに、そして斎藤又三郎先生の所へ、お参りをする信者が一時は増えたと言われる位に御比礼が立った。大谷の金光様は麦飯金神、と言う様な悪い四股名を付けた人があった位です。斎藤又三郎先生の所では、おかげが生き生きとして受けられる。斎藤又三郎先生も教祖様の事を、そういう風に言っておられる。
教祖様は麦飯の煮える時の様に、ブツブツ口の中で言うてから、はっきりしなさらんと言った意味の事を言うておられる。そういう時代に信者は、斎藤又三郎先生の所で、おかげを頂いておった信者である。それがある時に、小さい海老のお供えを持って来た。漁師であつたらしいですね。そして御結界に持って来て、海老のお供えをしてから言う事がです、あちらは斎藤又三郎先生の事です。
あちらは厳しくて喧しいと。だからこういう物は持って行かれんのですけれども、こちらは大人しゅうどんな物を持って行っても、お供えして下さるからと言うてお供えした。その時、初めてお伝記に金光様が腹立てられたという所は、そこの所にに出て来るだけですね。立ち上がってその海老を持って、庭に打ち捨てられたという一幕が、お伝記にございます。『いくらあちらで人が助かると言うても、あちらはこちらの弟子だぞ』と言うて、お供えをさして貰う、その心掛けを教えられたと言う事でございます。
あちらはやかましいから、よい大きな海老を持って行く。こちらは黙って何でもお供えして下さるから、まあこんなものですけれどもと言うて持って行く訳です。そしてそれを庭に持って行って打ち捨てられたと言う。そしてあちらはこちらの弟子だと言われたお話が残っております。ですから本当におかげの自覚、おかげを頂いておる事が分かれば分かる程、言うならばこんな事では相済みませんけれどもというお詫び。
同時に謹しみと言うものがお供えには、必要であると言う事も分かると同時に、ただ単にお供えさえをしさえすればよいと言う、何の内容もない名刺が代り的なものであってはならないと言う事である。その内容がおかげを受けておる喜びの現れが、お初穂と言う事になる。日田の堀尾先生が、ある時に三代金光様に、金光様お初穂をお供えさせて頂くのに奉と書いておる。又はお初穂と書く人もある。金光様どちらが本当でございましょうかと言うてお伺をなさった。
あなたはお初穂が結構ですと仰ったそうです。私はそれを聞きいてから、あゝこれはお初穂と書かにゃいかんなと思うた時代がありました。所がよくよく考えよった所がです。お初穂じゃない自分のものばお供えしょるだけ。私のものばお供えしょる。そんならこれは奉でなからにゃいかん、本当にそしてお初穂をお供え出来れる内容の信心を身に付けなければいけないなぁと思う事がございます。
今は私は、私のお供えは全部、御本部へのお供えする時には、お初穂と書きます。お初穂と言うのは、自分のものではないと言う事である。御飯なら御飯を炊きましょう、そのいわば炊き初穂を、こうやってお供えするでしょう。いうなら神様に預かっておるものの中から、その炊き初穂をお供えする様なものです。神様のものだと言う頂き方、だから如何に堀尾先生の信心が進んでおられたかと言う事が分かります。あなたはお初穂が良いと仰った。ならその時もし私がお伺したら。
あなたは奉るでなければいけませんと仰ったに違いないです。奉というのは自分の財布から、自分のものをこうやってお供えしょるのと同じ事です。本当はこのお財布の中の全部が、あなたのものゝ中から気分気持ち、初穂をこうやってお供えさして頂いておると言う、頂き方が実は本当だと。まぁ今日はお供えお初穂の事について、色々聞いて頂きましたが。これは日々の事ですから、その内容をよく分からして頂いての場合には。こうしなければおられない。こんな広大なおかげを頂いてという時には。
矢張りこんな広大なおかげを頂いてと言う、折り目をキチッとしなければいけないと思う。日々のそれが、言わば日初穂的なもの。只今日もお生かしのおかげを頂いて、あれやこれやとおかげを頂いておる、その喜びのしるしが、お初穂にならなければならない。同時に御利益と言うもの、おかげと言うものは、お供えものとつきものではないと言うことを、最近参って見える、昨日御神酒のお供えを持って見えた、言わばおかげを頂いてからのお供えです。
してみるとお初穂をしなければ助からんと言う事ではないと言う事が分かつた。そういう色々な内容を、もっともっと深い意味合いを自分で感じる様にもなるでしょうけれども。例えば上げねばおかげが頂かれんと言う、誤った考え方を取ると言う事と同時に、是はおかげの自覚を促しておられる。おかげを受けておると言うその自覚がです。自とお初穂になって来ると言う事に、ならなければならないという風うに、教えてあると思います。 どうぞ。